批評ワークショップ
抑圧の記憶、創作の作用
『ルオルオの怖れ』監督:洛洛(ルオルオ)
2020年1月、新型コロナウイルスが湖北省武漢市で発見された。パンデミックは中国を襲い、さらには世界にも広がった。武漢市がロックダウンされたのは1月23日のことだったが、この映画はその数日前の撮影から始まる。この映画の監督であり主な被写体でもあるルオルオは、自宅の薄暗い部屋にカメラを置き、マスク姿でカメラに向かう。彼女の顔がクローズアップになるが、口元はマスクに覆われていて見えず、目は怯えている。そして、不安に声を震わせながら独白する。ウイルスが恐ろしい、外出する気になれない、誰かが歩く音が聞こえれば窓を閉めたくなる、ウイルスは自分の心を侵食している、と。
ルオルオは、四川省南部の地方都市にある集合住宅に、90歳の父と同居している。その2人の住居で撮影された映像のみでまとめられる本作で、カメラは一歩たりとも外に出ない。コロナ禍という特殊な状況下で、高齢の父とすでに退職したルオルオが送る日常風景が、シーンの大部分を占める。三脚で設置されたカメラは2LDKほどの住居で過ごす父娘をとらえ、2人はすでにカメラの存在を忘れているかのようだ。
コロナ禍におけるルオルオの私日記とも言えるこの作品では、生活にルーチンが生まれるのと同様、定型のシーンが順々に繰り返されていく。ルオルオの独白、父との食事、家事、ルオルオがパソコンで参加する仲間のオンラインミーティングにオンラインヨガ、父の個人史の聞き取り。彼女が参加しているミーティングは、映画作家で振付家の章夢奇(ジャン・モンチー)らが参加するプロジェクト「民間記憶計画」の集まりのようだ。メンバーは中国各地に散らばっている。
映画内のルーチンに、地図で「民間記憶計画」メンバーの居住地を探し出す行為も加わる。壁に貼った中国全土地図に、ルオルオがカメラを向け、一人でぶつぶつと話しながらメンバーの居場所を探す。地図にズームアップし、見つかった都市名や県名を指でそっとなぞる。オンラインでしか今は会えない彼らとの関わりの実感を、身体的に得たいという渇望が滲み出る。
前述のように、父の個人史を聞く行為も、この映画のルーチンのひとつだ。父は、近づく死を意識して、コロナ禍の前から回想録を文章で綴っているという。数センチにもなる分厚い手書きの冊子に綴られているのは、1950年代に政府の失策によって起こった大飢饉や、反右派闘争の不条理と悲劇だ。ルオルオが当時のことを質問すると、父は歯に衣着せぬ言い方で政権を批判する。耳が遠く、普段から声が大きくなってしまうルオルオの父だが、1950年代当時を語るときにはさらに声が大きくなり、眼光にも鋭さが増す。約70年が経ったとしても、これは決して忘却されてはならないのだという主張を感じさせる。
映画全体に散りばめられているのは、記憶と創作というテーマである。まず記憶については、ルオルオが父の個人史に触れ、「民間記憶計画」に参加していることからも明らかだ。彼女は記憶というものの価値を重要視している。コロナ禍において、いかにウイルスを恐れたか、いかに他者と関わったか。彼女の私的な記憶を映画化したとも言えるのが、この作品だ。
そしてその記憶が、あくまでも創作行為として映画のフォーマットでまとめられているのが、単なる私日記を超えた面白さである。時系列のログではなく、ルオルオ独自の芸術的感性によって編集されることにより、観る者は、ルオルオの当時の感覚や記憶を、より生々しい状態で感知することができる。住宅内に差し込む美しい自然光やカメラを固定する位置の工夫、屋外から聞こえてくる雑踏の音やテレビ音声の効果、そしてルーチンで繰り返される場面展開から生まれる映画全編のリズム。これらの意図的な演出には、ルオルオが残したかった記憶の、言葉にならない部分が詰め込まれている。
当初は心が侵食されて神経質になり、不安に苛まれていたルオルオだが、映画の終盤で徐々に明るい表情を取り戻していく。サンルームに降り注ぐ陽光のもとで踊り、また、歌も歌う。このような彼女の変化も、ルーチンのようなリズムのある場面展開によって、より引き立てられた。
では、この抑圧された状況で、彼女はどうして自身に変化をもたらすことができたのか。映画を作るという創作行為によって、彼女は癒しを得たのではないだろうか。ちなみに、映画の中で彼女の父が朗読する回想録も、詩的で美しく、文学的センスに富んでいて、まごうことなき一種の創作なのだ。創作は、抑圧された精神に対して何らかの作用をもたらすのかもしれない。
(山本佳奈子)