批評ワークショップ

「観る」ことと「聴く」こと——受け止められる声=意志——

『私を見守って』監督:ファリーダ・パチャ

電話の呼び出し音に続き、話しはじめる女性とその相手の声が、黒い画面を背景に耳に届く。やがて音に遅れを取って映し出される、事務所らしき場所でメモを取りながら受話器を持つ、先の「話しはじめる女性」……。こうした音の先行によって、私たち観客の「聴く」ことへの意識を喚起してはじまるファリーダ・パチャ監督『私を見守って』(2021)では、病院から独立して活動する、医師・看護師・カウンセラーで構成された3人の女性ケアスタッフ——病院の終末期医療への批判がたびたび映画のなかで聞かれる——が、患者の家を訪ねる形で行うインドの在宅緩和ケアの現場が捉えられてゆく。冒頭からの電話(=声)のやりとりがまだ継続されるなか、彼女たちが同乗する自動車内から捉えられた、それなりの都会であるらしい道路や街並みが画面に現れ、3人の患者の終わりが見えかけた人生を垣間見る旅に私たちは誘われてゆく。

医療行為の大前提は、患者の意志を最優先に考え、ケアを行うことなのか。本作においても、患者本人の意志にできる限り寄り添うべく、耳を傾ける患者家族やケアスタッフの姿がある。

最初に私たちが出会う患者は、家長である年老いた長身の男性だ。常に父のそばで寄り添う息子は、本人と母の前でガンのステージの話をしないよう、ケアスタッフに事前に求める。家族が病状や今後の方針を積極的にスタッフに問うなか、意識が朦朧としはじめているのだろうか、かつては快活であったことがうかがえる患者の男性は、どこか上の空である。

続いて、子供たちを村の祖母のもとに置いてきたという比較的若い男性患者。彼の肺がんは進行しているとはいえ、効きそうな経口抗がん剤があるとされる。しかし、その方が身体が楽だということで、いつも屋外で治療を受ける彼とその妻に、月に7万ルピー(日本円にして10万円強)の薬代を支払うことは難しいとされ、治療やケアはケアスタッフの手に委ねられることになったようだ。

最後に、排泄すら困難な状態で力なく横たわる年老いた女性患者。ケアスタッフはすでに何度かその家を訪ねているようだが、この映画ではじめて彼女と向き合う観客にいきなり提示されるのは、家族とスタッフとの間で交わされる、家で看取るか、病院で看取るか、といった究極の議論である。

3人の患者とその家族を待ち構えるのは、すべての生の終わりに約束された死であり、生きる以上、誰しもが直面する途轍もなく大きな問題だ。こうした問題を取り扱う作品は、これまでにも、そしてこれからも、様々なアプローチによって創造されてゆくだろう。それでは、「聴く」ことへの意識を強く喚起することではじまるこのドキュメンタリーがもたらす特異な体験とは何だろうか?

最初に私たちが出会った男性患者とその家族との間で交わされる印象的なやりとりが映画の後半にある。症状が進み、声が出せなくなってしまった患者は、身体の微細な動きによって自らの意志を伝えようとする。冒頭からの緻密な構成によって私たち観客に喚起されていた「聴く」ことへの意識は、その対象である声(=音)の喪失によって「観る」ことに転換されるともいえるが、それは同時に聴き取ることの困難な声、声ならざる声をそれでも聴こうとする無謀にして繊細な企てに収斂される。私たち観客も、朦朧とした患者の姿——彼の虚ろな目はそれでも何かを訴えている——をより真剣に「観る」ことになり、言い淀むような迷いを見せつつも、男性患者が伝えようとする声にならない声=意志を、常に寄り添ってきた息子とともに汲み取らなければならなくなる。それまで冷静さを装っていた息子は堪えきれずに大声をあげて泣き喚く。そこで老父が口にした声なき声の正確な意味合いは、私たちには判然としない。ただ、父親の声なき声=意志に耳を傾けることから、息子が泣き喚き、フレームアウトするまでをワンショットで捉えたこの長回しは、持続する時間のなかで変化する感情を見事に捉えている。朦朧とした父の姿にショットが切り替わってもなお、フレームの外から持続して耳に届く彼の泣き声は、真剣に「聴く」ことを欠いては闇に葬られていたかもしれない父の最期の声=意志の脆さ、その瞬間性を喚起する。二度と繰り返すことのできない瞬間の重なりをたしかに捉えたその長回しは、脆い意志がかろうじて守られた奇跡的なショットであった、と心からの感動を覚えずにはいられないのだ。

声なき人の声=意志を「聴く」ために「観る」こと。あるいは、何かを一心に「観る」ことで、聞こえてくるものの到来を真剣に待つ(=「聴く」)こと……。「観る」ことと「聴く」ことの相互作用によって脆弱な声=意志に寄り添い続けた人々の姿は、いつの日か訪れる「大切な誰かの死」に向き合う勇気と術を私たちに与えてくれるだろう。誰かとの別れが迫った時、たとえ声(=音)が不在であったとしても、「観る」ことと「聴く」ことを通して声なき声=意志を受け止めることのできる可能性が、私たちには残されるはずなのだ。

(中川鞠子)